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龍の年を迎えて [マイライフ]

新年、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
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2024年元日は四方神社へ初詣に行き、おみくじを引き読みながら、一年の計を考えながら過ごしていた。
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年末にスキーガイド中に腰を痛め、そのまま甲斐駒ヶ岳をガイドして、膝の痺れが復活したので、大晦日と元日はゆっくり静養していた。
1月2日から赤岳鉱泉に入り、アイスクライミングと雪山登山の予定だったので、なるべく休もうとお屠蘇も飲まず、一人2階の自室で本を読んでいた。
15時に翌日からのガイド準備を終えて、寝転がった時、急に「明日は山に行ってはならない」と考えるようになった。(結果論と言われるかもしれないが…)
 
自分の腰が不調なまま、ガイドを行うことで何か悪いことが起きるのだと思い、お客様へ正直に相談の電話をした。
快く「無理されずに、またの機会にしましょう」と理解していただき、ガイドキャンセルとなった。
そして、赤岳鉱泉に「私の腰の調子が悪いので…」とキャンセルの電話を入れた。
 
そして、ガイドキャンセルした予定をどこかの日程に組み込もうとスマホを開いた瞬間に、地震が来た。
短時間で収まり、静かになったので、またかと思っていたら、今度は凄まじい横揺れが始まった。
なかなか収まらず、かなりの時間に感じた。
 
一階にいた子供達が騒いでいるのが聞こえた。
下の子は怖くて、外に逃げ出したようだ。
 
2階から庭を見たら、灯籠はぐちゃぐちゃに倒れ、外壁は全壊していた。
町内アナウンスのスピーカーが津波が来るから「すぐに避難」と叫び、テレビも大津波警報を知らせて来た。
 
我家は海抜2m、海まで100mで、予想される津波は3mと聞き、避難を急いだ。
家族全員をハイエースに乗せて、とにかく海を背に赤信号を無視して走った。
燃料を満タンにしておきたくて、ガソリンスタンドに寄ったら、店員も避難していて補給できず。
セブンイレブンで食料を確保しようと寄ったら、こちらも閉店していた。
沿岸部の家庭全てが南へ向かって逃げているので、道路はすぐに渋滞になる。
 
渋滞を見つけたら即座に横道に逸れて、海から離れる努力をした。
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もう充分に海から離れた場所でクルマは動かなくなった。
 
呉羽山公園の石坂テニスコートの駐車場に避難した。
ここは息子がサッカーの練習に通っていたところなので、土地勘もあった。
公衆トイレもあるし、自販機もある。
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自販機に「おでん缶」を見つけたので、家族分5個買ったら、ちょうど売り切れになってしまった。
 
とりあえず、飲み物と食料はあるので問題はない。
ただ、頻繁に大きな地震が発生するので、もう家は倒壊しているだろうと思った。
リフォームは何度かしているものの、基本的には100年以上前の家なので、とても持たないだろう。
 
満潮時刻を過ぎて、避難所に移ることに決定。
ガソリンスタンドを探しに8号線を走り、列に並んで満タンにした。
一度自宅に帰り、布団を取りに行った。
我家は、ちゃんと立っていた。
 
昔、祖父が言っていた。
「うちの大黒柱は、(シベリアだったかカナダだったか)から持って来た強い柱だから何百年経っても持つ」「建て替えても柱は残せ」と。
四方の街は、どの家も真っ暗でほぼ全家庭が避難したようだ。
 
とにかく短時間で布団とテントやマットや炊事用具など必要なキャンプ道具を積んで避難所に向かった。
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広い体育館の中にジェットヒーターが2つ。
もう21時を過ぎていたので、ヒーターの周りは人でいっぱいで、ヒーターから一番遠い場所に寝床を作った。

余震はまだまだ永遠に終わらない。
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富山県選出の衆院議員が顔を見せに来たが、「皆さん、頑張ってください」と声を掛けてすぐに帰って行った。
23時頃にミネラルウォーター、ビスケット、毛布が配られた。
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一番、地震を怖がっていた辰年の息子がようやく寝た。
 
しかしながら、震災の報道を延々と流すラジオとテレビが大音量で流され、照明灯が明るく、とても寝られたものではない。
特に報道は、ついさっき味わった地震の恐怖を繰り返し思い出させ、ここに長くいることは地獄と感じた。
避難所を運営している人達には本当に申し訳ないのだが、少しはあの時を忘れさせて欲しいと叫びたかった。
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富山の人は、避難所に泊まるのは初体験だろうし、避難させていただいている立場的に要望は言いづらい。
しかし、24時を過ぎて私がスタッフに音量を下げること、照明を消すことをお願いしに行った。
とにかく、突然の予想外の出来事で疲れている人達を寝かせてくれと。
 
24時30分にようやく、体育館が暗く静かになった。
しかし、元日夜から2日朝は冷え込んで、ほとんど寝られなかった。
 
翌朝明るくなったら、各家族が続々と帰宅を始めた。
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自宅へ戻ったら、庭の外壁は全壊し、灯籠はバラバラに倒れていた。
灯籠は先祖代々、我家の記念写真に写っている貴重な存在で、それが無くなることは精神的衝撃が大きかった。
 
家屋にもヒビが入り、ダメージはあった。
しかし、インフラは全く問題なかったし、全員が怪我なく今日まで過ごせたことには感謝しかない。
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四方漁港の周りは道路に亀裂が入り、危険箇所もある。

我家を心配して来ていただいた方もいらして、そして離れていても温かい応援の言葉をくださる方々のおかげで、先の不安は随分と柔らいだ。

辰年は動乱の年とも言われるが、元旦から災害、事故と続き過ぎだ。

今年からは富山、剱岳と距離を置いて、剱岳ガイド事務所も改めて、主体活動エリアを他へとずっと考えていた。
でも、今回の件で北陸に少しでも人を呼ぶことができたら、自分が産まれた地への恩返しなのかもしれないとも思い始めた。

最後に、今回の能登半島地震により被災された震源地に近い方々にお見舞い申し上げますと共に、一刻も早い復旧をお祈り致します。
自分が被災地に何ができるのかを考えて、微力ながら日々活動したいと思います。

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