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年始の赤岳鉱泉 [八ヶ岳]

ようやく、年始で赤岳鉱泉へ。
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1/2-3で入る予定だったが、ガイドキャンセルしてしまい、その後もいろいろあってようやく来れた。
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初日は、アイスキャンディ講習。
 
お二人ともアイス初体験なので、変な癖がなく、身体がすぐに型を吸収してくれる。
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アイスはまず型を作ることに尽きる。
 
質が悪いトレーニングを経て、型の崩れた状態に陥ると、やればやるほど悪循環にはまる。
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すぐにアイスが楽しいと言ってくれて、これからが楽しみだ。
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大同心と小同心の風景は、まだまだ白さが足りない。
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ワインを飲みながら語り合う時間も大切。
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翌日は強風と視界不良の中、阿弥陀岳へ。
この日に存在するリスクを回避するルートを登り、風に当たらず楽に登れたと思う。
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強風ホワイトアウトの山頂は長居無用。
 
中岳沢も雪は少ないとはいえ、上部は吹き溜まり、ライン取りを考える必要がある。
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下山後の楽しみは、残念ながらまさかの定休日。
 
今年初めての赤岳鉱泉が無事終了したが、いろいろ思うところがあり、かなり緊張感を持ってガイドした。

真面目に懸命に努力してきた山岳ガイド達に降りかかる不幸な出来事の連続は、やるせなく、いたたまれない気持ちだ。

その不幸は、いつ自分やお客様に降りかかるかもわからない。
だから、違和感や不安を覚えたら、自分は躊躇なく現場でも予定を変更する。

その信頼関係が築けない方と山へ向かうことはできない。
お客様がいくら減ったとしても、自分はそれで良いし、自分の仕事は失敗したら全てが終わってしまうのだ。
 
それにしても…

職能とルールを守り、真摯に努力して試験に合格し、山岳ガイド資格を取得して、やっと軌道に乗り始めた方々に神様はなんという仕打ちを与えるのだろうか。
 
身内のことも含めて、今年は越えることが困難な試練が多過ぎはしないか。

ZAO [大好きなスキー]

正月第二週は蔵王へ行くと年間スケジュールで決まっている。
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しかし、2024年はいろんなことが重なり過ぎて、催行を中止しようかと悩んでいたが、蔵王に行かなかったら後悔の方が大きいと思い、ひとりで東北へ出発した。
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まずは、ひとりで湯殿山へ行き、身体を慣らす。
いろんなことがあり過ぎて、今シーズンはほとんど滑り込みができていないので、ポジションの確認をしながら20数本滑る。
  
そして、翌日にお客様と合流。
 
ライザから刈田岳を目指す。
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う〜む。
やはり、雪は少ない。
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毎年お世話になる避難小屋。
さらに上へ進むが、視界もクリアにならず、気持ちいいスキーになりそうもない。
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刈田岳まで行かずに、ゲレンデパウダーを廻すことに変更してドロップ。
 
それはそれは、素晴らしい雪でした。
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夜は馴染みのお寿司屋さんへ。
 
地元の方々と合流して、元気と勇気をいただきました。
 
また、来年も蔵王に来れるよう頑張って生きようと思う。
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翌朝は蔵王ロープウェイから地蔵尊へ上がるが、またも強風視界なしで、他のエリアへ移動してハイクアップ。
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薄パウダーが気持ち良かった。
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天気も良くなってきたので、地蔵岳へのゴンドラで再度お釜へ行こうと思ったら、故障で運休になってしまった。
 
日曜なのに…。
観光客は払い戻ししてた。
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登山チームと合流して、樹氷見物に。
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夜は蔵王源泉「ろばた」へ宿泊する。
とにかく温泉が最高!
一日三組しか泊まれないので、貸切で楽しめる。
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ジンギスカン料理も最高!
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最終日は蔵王ロープウェイが動いたが、山頂は爆風極寒で地蔵尊にご挨拶。
 
上がろうとしても、前に進まず、ロープウェイも運行停止するというので下山した。
 
蔵王バスターミナルで解散して、富山へ帰る。
雪は大したことなかったが、北陸道に入ってから横風が強く、箱形ハイエースでは車線をキープするのが至難だった。
 
能登半島へ向かう東北ナンバーの「支援物資搬送中」の紙を貼ったクルマがたくさんいて複雑な思いだった。
 
自分のような人間でも役に立つなら、支援活動に加わりたいが、今の段階では行っても邪魔になるだけで歯痒い。
すぐ隣にもっと困っている人がいるのに、仕事をやめるわけにも行かず情け無い限りだ。
 
つくづく自分は無力だなと思う。

仕事始めにあたり [北アルプス]

2024年の仕事始めは西穂高岳。
 
地震はまだまだ続き、寝ていても身体が揺れている感覚が残り、なかなか疲れが取れない。
壊れたものの修繕も気になるが、いつまでも仕事を休む余裕もない。
 
そして、自分に必要なのは山の中で深呼吸して、生気を取り戻すこと。
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西穂山荘に着いたら、N県警とG県警の山岳警備隊がパトロールに来ていた。
こちらはN県警の方に撮っていただいた。
 
G県警の方が「着いた早々なんなんですが、明日はここから上には登れないですよ」と。
気持ちはわからなくはないが、その判断は登山者自身が決めることであり、それが登山という行為の本質だと思うのだ。
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夕食後にはN県警による安全講習が行われたので参加した。
 
この夜は新年初めて爆睡できた。
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翌朝は小屋の朝食中に西穂高岳へ向けて先頭で出発。
丸山までは脛程度のラッセルだが、白い雷鳥がたくさん出て来て、過酷な自然環境で生きる姿に元気をもらえた。
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西穂主稜線が見える所で、ロープを付けて、ピッケルに変えて強風帯に入る。
寒気と西風の強烈さは、厳冬期北アルプスそのものだが、山頂を往復できないコンディションではない。
 
しかし、独標直下でお客様の頬が白く変わり始めたので、即座に下山を開始した。
顔面凍傷は自意識なく進行するので、周りが早く気付かなくてはいけない。
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安全圏に降りて、頬の血行も戻ったようだ。
本当に良かった。
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仕事始めは登頂ならなかったが、厳冬期北アルプス稜線の寒気と向き合って、ウェアやバラクラバ、グローブ選択の重要性を確認できたことと思う。
 
富山へ帰り、翌日は白木峰の予定だったが、前夜からまとまった降雪があり、アプローチにも難があるので、来拝山へ変更した。
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登山口からワカンを履いて出発。
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ワカンを履いて膝上で、急登では胸までのラッセル。
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夏はファミリーハイキングの山だが、ラッセルをたっぷり堪能することができた。
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下山して、芦峅寺雄山神社で参拝。
 
波乱の幕開けだった本年が早く平穏無事になりますように!
 
山岳遭難も続き、悪いことばかりが連鎖している状況なので、明るいニュースをたくさん聞ける世の中になって欲しい。
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お客様にえび寿司へ連れて来てもらった。
えび兄も頑張っていた。
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それぞれ、自分のやるべき仕事を一生懸命頑張って、お客様の足が北陸に向くようにできたらと思う。

龍の年を迎えて [マイライフ]

新年、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
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2024年元日は四方神社へ初詣に行き、おみくじを引き読みながら、一年の計を考えながら過ごしていた。
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年末にスキーガイド中に腰を痛め、そのまま甲斐駒ヶ岳をガイドして、膝の痺れが復活したので、大晦日と元日はゆっくり静養していた。
1月2日から赤岳鉱泉に入り、アイスクライミングと雪山登山の予定だったので、なるべく休もうとお屠蘇も飲まず、一人2階の自室で本を読んでいた。
15時に翌日からのガイド準備を終えて、寝転がった時、急に「明日は山に行ってはならない」と考えるようになった。(結果論と言われるかもしれないが…)
 
自分の腰が不調なまま、ガイドを行うことで何か悪いことが起きるのだと思い、お客様へ正直に相談の電話をした。
快く「無理されずに、またの機会にしましょう」と理解していただき、ガイドキャンセルとなった。
そして、赤岳鉱泉に「私の腰の調子が悪いので…」とキャンセルの電話を入れた。
 
そして、ガイドキャンセルした予定をどこかの日程に組み込もうとスマホを開いた瞬間に、地震が来た。
短時間で収まり、静かになったので、またかと思っていたら、今度は凄まじい横揺れが始まった。
なかなか収まらず、かなりの時間に感じた。
 
一階にいた子供達が騒いでいるのが聞こえた。
下の子は怖くて、外に逃げ出したようだ。
 
2階から庭を見たら、灯籠はぐちゃぐちゃに倒れ、外壁は全壊していた。
町内アナウンスのスピーカーが津波が来るから「すぐに避難」と叫び、テレビも大津波警報を知らせて来た。
 
我家は海抜2m、海まで100mで、予想される津波は3mと聞き、避難を急いだ。
家族全員をハイエースに乗せて、とにかく海を背に赤信号を無視して走った。
燃料を満タンにしておきたくて、ガソリンスタンドに寄ったら、店員も避難していて補給できず。
セブンイレブンで食料を確保しようと寄ったら、こちらも閉店していた。
沿岸部の家庭全てが南へ向かって逃げているので、道路はすぐに渋滞になる。
 
渋滞を見つけたら即座に横道に逸れて、海から離れる努力をした。
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もう充分に海から離れた場所でクルマは動かなくなった。
 
呉羽山公園の石坂テニスコートの駐車場に避難した。
ここは息子がサッカーの練習に通っていたところなので、土地勘もあった。
公衆トイレもあるし、自販機もある。
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自販機に「おでん缶」を見つけたので、家族分5個買ったら、ちょうど売り切れになってしまった。
 
とりあえず、飲み物と食料はあるので問題はない。
ただ、頻繁に大きな地震が発生するので、もう家は倒壊しているだろうと思った。
リフォームは何度かしているものの、基本的には100年以上前の家なので、とても持たないだろう。
 
満潮時刻を過ぎて、避難所に移ることに決定。
ガソリンスタンドを探しに8号線を走り、列に並んで満タンにした。
一度自宅に帰り、布団を取りに行った。
我家は、ちゃんと立っていた。
 
昔、祖父が言っていた。
「うちの大黒柱は、(シベリアだったかカナダだったか)から持って来た強い柱だから何百年経っても持つ」「建て替えても柱は残せ」と。
四方の街は、どの家も真っ暗でほぼ全家庭が避難したようだ。
 
とにかく短時間で布団とテントやマットや炊事用具など必要なキャンプ道具を積んで避難所に向かった。
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広い体育館の中にジェットヒーターが2つ。
もう21時を過ぎていたので、ヒーターの周りは人でいっぱいで、ヒーターから一番遠い場所に寝床を作った。

余震はまだまだ永遠に終わらない。
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富山県選出の衆院議員が顔を見せに来たが、「皆さん、頑張ってください」と声を掛けてすぐに帰って行った。
23時頃にミネラルウォーター、ビスケット、毛布が配られた。
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一番、地震を怖がっていた辰年の息子がようやく寝た。
 
しかしながら、震災の報道を延々と流すラジオとテレビが大音量で流され、照明灯が明るく、とても寝られたものではない。
特に報道は、ついさっき味わった地震の恐怖を繰り返し思い出させ、ここに長くいることは地獄と感じた。
避難所を運営している人達には本当に申し訳ないのだが、少しはあの時を忘れさせて欲しいと叫びたかった。
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富山の人は、避難所に泊まるのは初体験だろうし、避難させていただいている立場的に要望は言いづらい。
しかし、24時を過ぎて私がスタッフに音量を下げること、照明を消すことをお願いしに行った。
とにかく、突然の予想外の出来事で疲れている人達を寝かせてくれと。
 
24時30分にようやく、体育館が暗く静かになった。
しかし、元日夜から2日朝は冷え込んで、ほとんど寝られなかった。
 
翌朝明るくなったら、各家族が続々と帰宅を始めた。
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自宅へ戻ったら、庭の外壁は全壊し、灯籠はバラバラに倒れていた。
灯籠は先祖代々、我家の記念写真に写っている貴重な存在で、それが無くなることは精神的衝撃が大きかった。
 
家屋にもヒビが入り、ダメージはあった。
しかし、インフラは全く問題なかったし、全員が怪我なく今日まで過ごせたことには感謝しかない。
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四方漁港の周りは道路に亀裂が入り、危険箇所もある。

我家を心配して来ていただいた方もいらして、そして離れていても温かい応援の言葉をくださる方々のおかげで、先の不安は随分と柔らいだ。

辰年は動乱の年とも言われるが、元旦から災害、事故と続き過ぎだ。

今年からは富山、剱岳と距離を置いて、剱岳ガイド事務所も改めて、主体活動エリアを他へとずっと考えていた。
でも、今回の件で北陸に少しでも人を呼ぶことができたら、自分が産まれた地への恩返しなのかもしれないとも思い始めた。

最後に、今回の能登半島地震により被災された震源地に近い方々にお見舞い申し上げますと共に、一刻も早い復旧をお祈り致します。
自分が被災地に何ができるのかを考えて、微力ながら日々活動したいと思います。